「バガヴァッド・ギーター 第6章 瞑想のヨーガ」
- 2019.04.04
こんにちは!
ヨーガ禅道友会集中講座にて学んだ内容をお伝えしています。
今日も「バガヴァッド・ギーター(神の詩)」。成川先生からいただいた資料より抜粋します。
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第6章 瞑想のヨーガ
ヨーガに登ろうとする聖者(ムニ)にとって、行為が手段であると言われる。ヨーガに登った人にとって、寂滅が手段であると言われる。(三)
実に、感官の対象と行為とに執着せず、すべての意図を放擲した人は、ヨーガに登った人と言われる。(四)
自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。(五)
自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。(六)
自己を克服し寂滅した人の最高の自己(アートマン)は、寒暑や苦楽においても、毀誉褒貶(きよほうへん)においても、統一された状態でいる。(七)
理論知と実践知により自己(アートマン)が充足し、揺ぎなく、感官を克服し、土塊や石や黄金を平等(同一)に見るヨーギンが、「専心した者」と呼ばれる。(八)
親しい者、盟友、敵、中立者、憎むべき者、縁者に対し、また善人と悪人に対し、平等に考える人は優れている。(九)
ヨーギンは一人で隠棲し、心身を制御し、願望なく、所有なく、常に専心すべきである。(一〇)
清浄な場所に、自己のため、高すぎず低すぎない、布と皮とクシャ草で覆った、堅固な座を設け、(一一)
その座に坐り、意(マナス)(思考器官)を専ら集中し、心と感官の活動を制御し、自己の清浄のためにヨーガを修めるべきである。(一二)
身体と頭と首を一直線に不動に保ち、堅固〔に坐し〕、自らの鼻の先を凝視し、諸方を見ることなく、(一三)
自己(心)を静め、恐怖を離れ、梵行(禁欲)の誓いを守り、意を制御して、私に心を向け、私に専念し、専心して坐すべきである。(一四)
食べすぎる者にも、全く食べない者にも、睡眠をとりすぎる者にも、不眠の者にも、ヨーガは不可能である。(一六)
節度をもって食べ、散策し、行為において節度をもって行動し、節度をもって睡眠し、目覚めている者に、苦を滅するヨーガが可能である。(一七)
そのような苦との結合から離れることが、ヨーガと呼ばれるものであると知れ。このヨーガを、ひるむことなく決然と修めよ。(二三)
ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己(アートマン)を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。(二九)
私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることがない。(三〇)
一体観に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。(三一)
自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切〔の生類〕において等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。(三二)
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自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。
日本人の文化では、「謙遜」が美徳とされがちですが、「謙遜」することを本来の自分は喜んでいない気がします。「謙遜」して自分を低めると、その低いところに自分で自分を引きずりおろしてしまうようなんです。
「謙遜」して、「いえいえ、私なんて、ダメです。自信ありません。」なんて、できれば言わない方がいいと思います。なぜなら、その「謙遜」を聞いたまわりの人も「謙遜」した人の価値を実際よりも低く見てしまうからです。
度が過ぎた「謙遜」は、やがて「自己卑下」となり、そして「自己喪失」につながりかねないという危険性があります。
たとえ、その場の雰囲気で「謙遜」してしまっても、その言葉通りの本当にダメな自信のない私になってしまわないように、後でしっかりと自分を高めてフォローしておきましょう。くれぐれも気をつけて!!
というわけで、謙遜していた私から、謙遜しない私に生まれ変わろう!!
明日も「バガヴァッド・ギーター」が続きます。よろしくお願いします。