「バガヴァッド・ギーター 第9・12章 信愛のヨーガ 」
- 2019.04.05
こんにちは!
2018年度ヨーガ禅道友会集中講座の講義内容をお伝えしています。
本日も成川先生の講義資料「バガヴァッド・ギーター(神の詩)」から抜粋です。
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「第九・十二章 信愛のヨーガ」
人が信愛(バクティ)をこめて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬虔な人から、信愛をおって捧げられたものを私は受ける。(二六)
あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。(二七)
かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為(業)の束縛から解放されるであろう。放擲のヨーガに専心し、解脱して私に至るであろう。(二八)
私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。しかし、信愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。(二九)
たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人であるとみなされるべきである。彼は正しく決意した人であるから。(三〇)
速やかに彼は敬虔な人となり、永遠の寂静に達する。アルジュナよ、確信せよ。私の信者(バクタ)は滅びるこたがない。(三一) 実に、私に帰依すれば、生まれの悪い者でも、婦人でも、ヴァイシャ(実業家)でもシュードラ(従僕)でも、最高の帰趨(きすう)に達する。(三二)
いわんや福徳であるであるバラモンたちや、王仙である信者たちはなおさらである。この無常で不幸な世に生まれたから、私のみを信愛せよ。(三三)
私に意(こころ)を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。このようにし私に専念し、〔私に〕専心すれば、あなたはまさしく私に至るで有ろう。〔三四〕
一方、すべての行為を私のうちに放擲し、私に専念して、ひたむきなヨーガによって私を瞑想し、念想する人々、(六)
それら私に心を注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。アルジュナよ。(七)
私にのみ意(こころ)を置け。私に知性を集中せよ。その後、あなたはまさに私の中に住むであろう。疑念の余地はない。(八)
すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、哀れみ深く、「私のもの」という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、(一三)
常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私に意(こころ)と知性(ブッディ)を捧げ、私を信愛するヨーギン、彼は私にとって愛しい。(一四)
世間が彼を恐れず、彼も世間を恐れない、喜怒や恐怖や不安を離れた人、彼は私にとって愛しい。(一五)
何ごとも期待せず、清浄で有能、中立を守り、動揺を離れ、すべての企図を捨て、私を信愛する人、彼は私にとって愛しい。(一六)
喜ばず、憎まず、悲しまず、望まず、好悪を捨て、信愛(バクティ)を抱く人、彼は私にとって愛しい。(一七)
敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、(一八)
毀誉褒貶(きよほうへん)を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処なく、心が確定し、信愛に満ちた人、彼は私にとって愛しい。(一九)
しかし、以上述べた、、この正しい甘露(不死)〔の教え〕を念想し、信仰し、私に専念する信者(バクタ)たち、彼らは私にとってこよなく愛しい。(二〇)
上村勝彦訳 『バガヴァッド・ギーター〕』
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心と身体の自由を願っている私としては、「~~~~人、彼は私にとって愛しい。」というクリシュナの言い回しに、なんとなく宗教的な束縛を感じてしまいましたが、みなさまはいかがでしたか?
ここで「私にとって愛しい」を「宇宙創造のエネルギーにとって自然な方向だ」と言い換えると少し受け取りやすくなりますでしょうか。
「私にとって愛しい人」であろうとすることは、宇宙エネルギーと同調した宇宙の創造物として、地球という星の上で、心と身体という義務に縛られた状態にあっても、歓喜と平和に満ちた光として存在できるよ・・・。
この心と身体が、今、何を思い、何を行っているか。
この思いと行いを、自分自身(宇宙エネルギー)は喜んでいるのか。
宇宙に広がる無限の愛と感謝に同調した思いと行いの一日でありますように。
次回も「バガヴァッド・ギーター」が続きます。