ヨーガ・スートラ 2・20
- 2024.04.09
2・20 見るものとは、純一な見る力そのものである。それは清純であるが、覚が提供する表象を介して対象を見るのである。「ヨーガ根本教典」佐保田鶴治著
佐保田鶴治先生の解説より~~~
~~~「見る力」(ドリシティ)は意識性と訳してもよい。真我は純粋な意識そのものである。或は知性と解することもできる。~~~
20 見るものとは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現われ方をする。「インテグラル・ヨーガ」スワミ・サッチダーナンダ著 伊藤久子訳
スワミ・サッチダーナンダの解説より~~~
~~~ヨーガ的な思考を通すとき、われわれはすべての人々を自分自身として見ることができる。すべての人々を抱きしめることができる。~~~
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先月3月末ごろの出来事です。
実家の父が突然倒れ、緊急手術後そのまま入院することになりました。
老々介護で父に介護されていたパーキンソン病の母は、かけつけた弟夫婦の計らいでその2日後には近所のグループホームに入所することになりました。
弟夫婦とは両親の介護方針について意見が対立し、コロナ禍もあって疎遠な関係になっていました。
本来ならば、忙しい中、父の入院と母の入所、その手続きと手配をすべて引き受けてくれた弟夫婦に感謝するべきなのでしょう。しかし、私の心中はムカムカと平穏ではなく、真逆な心境、なぜだか憤りがふつふつと沸いていたのです。
父に介護されていた母は、帰省の度に「お父さんと二人でいられる、今が一番幸せ。」と嬉しそうに口にしていたので、突然の入所は、母にとってはあまりにも辛い展開になってしまったと思います。母は、弟夫婦がすぐに迎えに来てくれると思って、仕方なくグループホームに身を寄せたようでした。
入所の翌日、今度は私がグループホームを訪ね、母を実家に連れて帰る許可をもらい、数日間母と過ごしました。
「お父さんの帰りを家で一人で待つ。一人で生活できる。絶対にグループホームには戻らない。」という頑固な母。私と口論しながらも何とかグループホームに入所することを納得してくれました。
認知機能は衰えているものの、昔の出来事はかなり覚えていて、何より自分の子どものために生きてきた母。納得の決め手は、
「母ちゃんは昔、『私は絶対に子供たちに迷惑をかけない』って言っていたよ。思い出してみて。グループホームは、自分の家族に迷惑をかけないと決断した素晴らしい方たちが集まっているところなんよ。大丈夫だから。」という言い聞かせにあったように思います。
グループホームに戻る日、よろよろと車椅子に座り、パッと家を見上げた後、「さあ、行こうやぁ」と気力を出して言ってくれた母に、昔の逞しかったころの母を見たようでした。
当初は、母を滋賀に連れて帰るつもりでしたが、母はそれを望みませんでした。私は淋しいような、でも、ほっとしたような複雑な心持ちです。
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「嫁」「姑」「小姑」という言葉がなくなってほしい。
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今回の出来事では、恥ずかしながら見事に「小姑」役を演じてしまいました。ヨーガの精神からかけ離れ、どん底なネガティブ感情にはまってしまったのです・・・。そのようなときは「見るもの」の存在は一体どこに消えているのでしょう?
もう「小姑」の種を発芽させるのはまっぴら御免だなあ・・・。
ヨガで、気付きの意識と本来の自分に戻る力を高めていきましょう。
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「自分の老後をいかに過ごすか・・・」
母も弟夫婦も大切なことを教えてくれます。
学べたことに感謝すると平穏な心に戻りますね。